Japan Port Consultants

JPCを創った人々

創始者の横顔
日本港湾コンサルタント協会設立当初

 鮫島 茂

 鮫島 茂
明治27(1894)年大阪市に生まれ、大正6(1917)年東京帝国大学を卒業後、大蔵省臨時建築部神戸支部へ勤務。職制の改革により、大正8(1919)年内務省神戸土木出張所に移り引き続き神戸に勤務した。大正14(1925)年に1年7ヶ月の欧米出張で、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、オランダ、スウェーデンを訪問。昭和2(1927)年に帰国し、横浜土木出張所の第二工場主任技師として横浜港拡張工事に従事した。
昭和12(1937)年下関土木出張所に異動し、関門海峡の増深、関門トンネルの施工促進に尽力。戦時中の昭和17(1942)年に海軍民政総監府交通土木局長としてセレベス島へ赴任、昭和19(1944)年帰国後は、海軍省、軍需省にて防衛工事に参画、昭和20(1945)年土木学会副会長を勤めた。同年退職し、翌年から自由業として活動を開始する。
戦後は日本港湾協会理事、公共事業委員会委員、国際荷役調整協会委員、日本道路公団顧問等の多数の団体役員・委員を勤めた。昭和34(1959)年に日本港湾コンサルタント協会を、昭和36(1961)年には(株)日本港湾コンサルタントを黒田静夫とともに創立した。昭和55年(1980)没、享年86才。


 黒田 静夫

黒田 静夫
明治36(1903)年静岡市に生まれ、大正15(1926)年に東京帝国大学を卒業後、内務省清水港修築事務所へ勤務。昭和3(1928)年に横浜港修築第二工場勤務となり鮫島茂と邂逅することとなる。昭和10(1935)年に鮫島とともに清水港震災復旧計画を作成し、昭和11(1936)年に清水港修築事務所の主任技師となり震災復旧工事に従事した。昭和12(1937)年に、横浜港修築事務所主任技師を兼務。
昭和13(1938)年に陸軍省第一船舶輸送司令部勤務、昭和14(1939)年内務省土木局第一技術課、昭和15(1940)年に興亜院へ移る。昭和18(1943)年に官制が改正され、運輸省通信省技師、港湾局計画課長となり、昭和21(1946)年第四港湾建設局建設部長、昭和22(1947)年東海海運局長、昭和25(1950)年港湾局長となり、日米安全保障条約に基づく日米合同委員会施設特別委員会日本政府代表として、港湾施設使用に関する調印等に当たる。
昭和30(1955)年に港湾局長を辞任し、港湾審議会委員をはじめ、民間企業や協会、自治体等の委員や顧問を歴任。
昭和34(1959)年に日本港湾コンサルタント協会を、昭和36(1961)年には(株)日本港湾コンサルタントを鮫島茂とともに創立した。昭和61(1986)年没、享年83才。

創始者の青年時代

青年技師 鮫島 茂

長期海外出張中のパリにて
鮫島は、大正6(1917)年に東京帝国大学を卒業後、大蔵省臨時建築部神戸支部へ赴任した(その後、職制の改革により内務省神戸土木出張所勤務となる)。この時、現場責任者として神戸港の修築工事を主導していたのが、日本で初めて函塊(ケーソン)工法を用いた森垣亀一郎である。鮫島は森垣の部下として、岸壁、防波堤、機械、船舶等の様々な港湾施設の設計・施工技術を学んだ。また、ケーソンの木製型枠の痛みが激しく、5,6回の使用でだめになることから日本初の鋼製型枠を導入し大成功を収めた。
その後、昭和2(1927)年に1年7ヶ月にわたる欧米の港湾視察から帰国し、横浜土木出張所の主任技師となる。「施工時の一時的な便宜のために永久的条件を犠牲にするのは本末転倒である」という明快な設計思想により、欧米先進国に先駆けて、大型ケーソン、大型プレキャスト扶壁体、大型円筒構を導入し、また、耐震構造対策、大型機械の導入を図るなど港湾土木工事の近代化と経済的施工に一時代を画した。そして、斬新な構造形式や新工法を駆使して、外防波堤築造工事、山下町大桟橋増補工事、瑞穂町先端部10m岸壁工事等を実施した。また鮫島は、昭和8(1933)年に英国置籍船エンプレス・オブ・ブリテン号が、訪日中の航海において船底に損傷を受けた際に、当時の日本には、同船が入渠検査可能な大型ドックがなく、香港まで引き返して修理を行ったことを受けて、我が国における大型ドック建造の必要性を説く論文『日本修船渠の現状及び其の対策に就て』を同年に発表している。


青年技師 黒田静夫

昭和3年頃の黒田
黒田は、大正15(1926)年に東京帝国大学を卒業。内務省清水港修築事務所へ赴任した。昭和3(1928)年に横浜土木出張所勤務となり、当時、同出張所の主任技師であった鮫島茂の直属の部下となる。当時、鮫島を首班として実施中であった横浜港第三期拡張工事に従事し、外防波堤築造工事、山下町大桟橋増補工事、瑞穂町先端部10m岸壁工事等に参画した。この拡張工事において、黒田らは、陸上で製作した大桟橋の円筒構の中空シリンダー部分と基礎の長尺杭を結合する円筒の中詰めに関して、下部に水中コンクリートを施工し、この硬化を待ってから円筒内の上部海水を排除しドライにしてコンクリートを打設する従前の工法ではなく、圧気潜函工法(ニューマチックケーソン)における気閘(エアロック)を円筒上部に取り付け、圧気を送り円筒内の海水を下端より排除して内部をドライにし、コンクリートを打設する新工法を考案し工期を短縮した。昭和10(1935)年に発生した伊豆地震で清水港の重力式係船岸が被災した。震災復旧工事の責任者として清水港修築事務所の主任技師となり復旧計画の策定と工事に従事した。その工法は、ケーソン底部の活動抵抗力の増大、タイロッドと控え工の強化、グラウティング(亀裂や隙間にモルタルなどを充填する工法)による裏込め土圧の軽減を図るもので、鮫島との共同作業による創意工夫であった。その後、清水港の岸壁は東南海地震や三河地震においてもほとんど被害がなく、本工法は、十勝沖地震後の釧路港の震災復旧工事にも使われた。また、昭和12(1937)年に報文『ヨット港の提唱』を発表し、海洋レジャー時代の到来を予測している。